狐草子

世界が面白くてよかった。大丈夫まだ書ける。

稽古中に涙が止まらなくなった話

 

取り組む分野は何であれ、その道のプロというのは本当にすごい存在だ。道場では、上手い人(上手いという言葉だけでは追いつかないくらいにすごい人たち)は「先生」と呼ばれており、座る場所を空けたり、湯のみを準備したり片付けたり、その先生のために皆が気をくばる。しかしそれは、例えば中学・高校の部活で見られたような「先輩を敬う」「後輩は先輩の分まで仕事をする」という文化とは全然違うもので、道場での人間関係を見てからというもの、中学時代に部活で先輩にへこへこしていたのは一体なぜだったのだろうと疑問に思うようになった。射が上手い人に対しては、自然と尊敬の念が生まれる。指導して頂きたいと思う。射法八節の一連の流れを見てはその見事さに惚れ惚れする。引き分けの時にかけと弦が擦れて鳴る「ギギギギ」という音も、矢が放たれた瞬間の弦音も、矢が的を破る瞬間の「パン!」という音も、すべてが洗練されている。自分もあんなふうに弓を引くことができたら、と思う。そういった感情の一つ一つが、自然と、先生への配慮を生む。

 

左手の小指にできたまめが痛くて稽古を断念した昨日を経て、今日は夜の部の稽古に参加した。いつものように道場の入り口で国旗に二礼し、挨拶をしてから袴に着替える。いつもより人数が多く、しかも六段以上が何人もいた。

巻藁用の矢を手にとり、弓を前にだして巻藁との距離をとる。両手を腰にあてて、物見、足踏み。弦を返して弓を起こし、矢をつがえる。取りかけ、手の内を作り、打起こし、引分け、会、最後に残心。かなりの頻度で稽古に来ていること、この前の稽古の時に「射がきれいになってきた」と褒められたことがあり、それなりに自信のある射ができたつもりだった。足を揃えて、弓を持ち直した私に、目の前で見ていた先生は

「まず何から言えばいいかな」

と思案顔だった。

色々と指摘された。かけはもっときつく巻くこと、右手の親指の付け根で弦を押すこと、だけど指先は反らすこと、手の内は小指と薬指と中指を一枚の板のようなイメージで作ること、左手の親指は中指の外側に添えること、ひじを張る、打起こしは肘から上げる、手首をつぶさない、引き分けは大きく、会は右手をぐっと押し込む。すべて優しい言葉で丁寧に教えてくれているのに、ずっとずっと泣きそうだった。

 

何回も何回も、巻藁に矢が刺さる度に毎回違う点を指摘される。指示は具体的なのに、自分ではそれができているつもりでいるから、どこに、どのように力を入れれば直せるのかわからない。何がいけないのか自覚できない状態というのは非常につらかった。それでも改善しようと射法を変えるけれど、射方を変えたせいでうまく矢を放てず、何本もの矢が頬に当たる。痛い。左手の小指のまめも破れ、無意識に庇おうとするので型がくずれる。

 

「右手首の角度が潰れてる、力を入れるのはそこじゃないよ」

 

先生からの指示に「はい」と答えた自分の声がびっくりするほど情けなくて、堰が切れた。適当な言葉が見つからないけれど、この人はこの世界の真実を知っている、と思えて涙がとまらなかった。自分はこの、的と国旗がある空間でただ、手首の角度ひとつ直せず、的前に立つこともできずに歯を食いしばっているというのに、先生の八節は驚くほど落ち着いていて、堂々としていて、美しい。技術への羨望ではない。思うように引けなくて悔しいとか、そんなレベルの話ではない。精神的な面で、先生は自分とは違う世界を見ていること、全く別の次元に到達していることへの激しい憧れがあった。その道を極めた人と話すとその深淵が垣間見えてしまうからこそ、見えるのにたどり着けなくて、その深淵をうまく処理・咀嚼できない自分を強く強く感じて、パニック同然になっていた。

 

これは弓道に限った話ではない。自分が今まで思いもよらなかったような発想をする人、なんらかのきっかけでその人の思想に触れた時、いつも脳みそがショートしたかのような強い衝撃を受ける。それは文学作品を読んだ時、誰かのLTを聞いた時、ブログ記事を読んだ時、絵画を見た時、急に訪れる。ただただそのエネルギーに驚き、自分との隔絶の大きさに絶望し、強烈に憧れ、それに付随して言語化不可能な何らかの感情に襲われ、何がなんだかわからなくなる。

 

泣いていることに気付かれないように、かけを巻き直しているフリをして俯く。ここの人たちは皆優しいから、初心者の私へも気さくに話しかけてくれるし、困っていたらすぐに助けてくれる。ここで泣いているのがバレたら、どれだけ優しく指導しても泣く人間として認識されてしまう。自分がへなちょこに見られることは問題ないが、泣かれることを恐れて先生方が率直なアドバイスをくれなくなったら大変な痛手なので、何がなんでも隠さなければならなかった。今は涙を止めて、稽古が終わって一人になったら、好きなだけ泣けばいい。

 

その後も何本か引いたけれど、

「疲れてきたのかな、どんどん引き分けが小さくなってるよ」

と言われ、それでももう一踏ん張り、と気張って引くものの

「うん、今日はおしまいにしましょう」

とにっこり笑って言われてしまい、あとは見取り稽古になった。先生方の射法はほんとうに美しくて、あそこにたどり着くまでにはどれだけの研鑽を重ねたのだろう、どうしたらあそこにいけるのだろうと、そればかり考えてしまう。

結局、的前では一本も引かずに終わりの時間になった。一回も引かなかった6本の矢を矢立から回収する。普段の半分くらいの矢数しか引いていないのに、普段とは比べものにならないくらいの疲労感があった。

片付けの時も私は、的づけ用の水のりを床にぶちまけるなどのヘマをやらかしたのに、他の人たちは相変わらず優しくて「道着汚れなかった?」「大丈夫?」などと私の心配ばかりして、のりまみれになっていた床をあっという間にピカピカにしてしまった。袴を畳みながら、連休の予定やら何やらについて聞かれるのでそれに答えていたら、さっきのパニックはすっかりどこかへ消えてしまって、国旗に二礼して誰もいない道場に「ありがとうございました」と挨拶をし、ひとりになった後も泣くことはなかった。

 

家に帰って水のりをかぶった足袋を洗っている時、弓を絞りすぎてまめができた左手の小指と、何本もの矢がかすって赤く腫れた右の頬の痛みが沁みた。どちらも下手であるがゆえに負った傷、これから何年も続けていったら、こういう怪我の仕方もしなくなるのだろう。

 

 

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