狐草子

世界が面白くてよかった。大丈夫まだ書ける。

猫カフェをひらいたりする

浪人生。男子。思うこと。今年の試験に落ちたら、俺はどうするんだろう。国立大学に行きたい。というか、学費の関係で国公立にしかいけない。現にこうして、予備校に通う金もないから自力で勉強している。宅浪はつらい。社会から切り離されている。俺は今、高校生でもなければ大学生でもなく、働いているわけでもない。つまり浪人生とは、ニートである。生徒手帳も学生証もないから、学割は使えない。家に引きこもって勉強するから、人に会わない。社会よ、俺が寝ていようが勉強していようがオナニーをしていようが、お前はたくさんの歯車をぎちぎちいわせながらまわっていくのだな、と少年は思う。いちにち10時間は勉強する。あまり成長している実感はない。うーーん。模試を受けるお金だけは、ちょっとだけやっているアルバイトでなんとか稼ぐ。結果は芳しくない。うーーん。浪人、もう1年したりするのだろうか。そしたら、学生じゃなくなる頃にはイイ歳になっちゃうな。たまに思索に耽る。猫が足元にすりよる。俺が構うと逃げるくせに。と思いつつ、愛らしいと思ってしまう。猫はずるい。猫になりたい。と、少年は思う。

 

 

就活生。女子。思うこと。4年生になった。小学校入学から数えて16年間学生として過ごしてきたけれど、ついに私も社会に出るのだ。与えられる側から、与える側へ。たくさんの歯車のひとつになってやろうじゃないの、と、たくさんの企業にエントリーする。書類をつくる。書類は合格する。面接に行く。不合格。提出。面接。不合格。提出。面接。不合格。ほう。私の何がいけないんだろう。書類に書いたことをほとんどそのまま喋ってるだけなのになあ。話し方?態度?身だしなみ?笑顔?…っていうか、顔?いろいろ考える。うーーん。だって、もう思い当たるところがない。ぽい、とリクルートスーツを脱ぎ捨てる。理由を明かされずに落とされるから、直すべきところがわからない。このまま就活を続けてもだめなんだろうな、ということだけがわかる。うーーん。パンプスで疲れた足を湯船でほぐす。お風呂上がりの足元に、猫が擦り寄る。私が構うと逃げるくせに。と思いつつ、愛らしいと思ってしまう。猫はずるい。猫になりたい。と、少女は思う。

 

 

 

そうだ、と思った。猫カフェをひらいたりするのはどうだろう。自分の居場所に、猫がいる。猫とはずっと一緒に生きてきた。足元でごろごろ喉を鳴らしている猫に、その時には君にも接客してもらうからね、とつぶやいてみる。都内、雑居ビルの一角を借りる。猫にとって居心地がいいように、リノベーションする。猫のための工夫は惜しみなくする。猫カフェをやっている友達がいるから、いろいろ聞いてみよう。客単価2000円くらいに設定してみる。仕事に疲れたサラリーマンがくる。外国人がくる。謎のイベントを開催する学生がくる、きっとくる。1日に10人きたら2万。1ヶ月で60万。場所代、電気水道ガス、維持費諸々、毎月40万くらいですむよね、たぶん。初期投資で猫がたくさん必要だけど、従業員はとりあえずいらない。自分ひとりで。パソコンに詳しい知り合いに、ホームページ作成を依頼しよう。2万くらいですむかな。SNSにたくさん写真をアップしよう。最近のネットでは、病的なまでに猫が愛されてるし、ちょうど良いじゃん。

 

 

 

このままぜんぶ、落ちたらね。うん、大丈夫。やっていける。少女は笑う。お前、ふてぶてしいけど、きっとナンバーワンになるよ。少年も笑う。猫はにゃあと鳴いて、するりとその手を逃れる。

 

 

これは強力な自戒です

 

 

 

考える。自分は何ができるのかを。

 

 

例えば私は、落合陽一が好きだ。西野亮廣が好きで、宇野常寛も好きだ。彼らの発信する情報を面白いと感じるし、その切り口はとても興味深いと思う。尾原和啓も好きだし、けんすうさんのことも好きだ。彼らに見えている社会の行く末を知りたいと思う。

 

今の世の中の不満がどんどん解決できればいいと思う。学びたい人が学びたい時に学びやすい世の中になるべきだと思うし、働きたい人だけ働いて、働きたくない人は働かなくても生きていける世の中がいいと思う。食事は食べたい時に趣味として楽しんで、移動も睡眠もめんどくさいから、ゆくゆくは「脱身体」できたらいいなあ、なんて。

 

だけど。私はそれらの問題について、なにか革新的なことができるのかと問われたらそれはノーと答えるしかない。新しい何かを生み出す人はいつだって、誰かのフォロワーにはならないのだ。現状を自分なりの切り口で解釈して新しい視点を見つけたり、あるいは製品を、技術を、創り出したりする。私にそれができるとは到底思えない。

 

つまり、私はフォロワーなのだ。宇野さんのフォロワー、尾原さんのフォロワー。彼らの発信する世界をおすそ分けしてもらって、楽しいな、こういう世の中になったら素敵だな、と思う。

 

別にそれが悪いことだと言っているわけではない。全ての人が何かを生み出せるなんて思っていないし、そうある必要もない。ただ、自分が新しい何かを生み出す器ではないことを自覚しなければならないと思う。

 

 

私がなにか面白いことを言っていていたとしても、それは彼らが言ってることの受け売り(たまに私なりにリミックスしたもの)だし、なんというか、虎の威を借る狐であることを忘れてはいけない。

 

ちょっと別件だけどおもしろいなと思った記事

geriburo.com

 

 

彼らの言説を鵜呑みにして心酔し、周りの人に希釈して垂れ流すようなことはしてはいけないと思う。してはいけないというか、メチャクチャ無駄だなと思う。Tipsとしてチラつかせて、興味を持った人にだけ入り口を伝えたらいい。私の頭を介して解像度が落ちてしまった状態で伝えるより、一次情報にアクセスしてもらったほうがいい。やらないように気をつけなくちゃ、といつも思っている。

 

 

これは余談。私は中学生の時、国語の教科書に載ってる森鷗外の『高瀬舟』を読んで、なんてつまらないんだ!!!!と思った。

 

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言葉はむずかしいし、ストーリーはまあまあ衝撃的だけど、結局何がいいたいのかよくわからない。そもそも時代設定が昔のことすぎてピンと来ない。中学生の私はそれ以降、森鷗外をはじめとする純文学に「面白くない」「難しい」というレッテルを貼って遠ざけてしまった。高校生の時に授業の外で鷗外に出会い直して、その威力に気づけたことは幸運だった。その偶然がなかったら、私は今でも鷗外に対する苦手意識を抱えたまま残りの人生を送っていただろうと思う。

 

 

押し付けられたものは、大抵おもしろくない。

 

 

考えを話すときは、簡潔に、わかりやすく。自分の話し方のせいで他人の苦手意識を作ってはいけない。そして、自分の思考は誰かの受け売り、もしくはリミックスであることを忘れてはいけない。

 

 

さて。では。

 

・誰かのフォロワーであることに甘んじている

イノベーションを起こすこともできない

・「インフルエンサー」の発信する情報を追うだけで精一杯

 

こんな私に、一体なにがどれだけできるのだろうか。

 

 

半径数十メートルの人間をハッピーにできたらいいと思う。自分がハッピーになれるから。自分が生きやすくなるから。そのために、情報発信力のある人たちの言っていることを取り込むのはそれなりに効果があることだと思うし、何よりワクワクする。ワクワクしている人の周りにはワクワクしている人が集まると思うし、楽しそうにしている人はそれだけで幸せをばらまいてると思う。楽しそうな人眺めるのスキ……。

 

 

 

いろんな視点を持つことは単純に楽しい。それを使ってどうこうしようというより、考え方の幅が広がって自由になる感じ。今まで考えられなかったことが考えられるようになる感じ。情報を追いかけて、自分に取り込んで、そうしていく中で革新的とまでは言えなくても、なにか面白くて楽しいことができたらサイコーじゃん!と思う。

 

 

 

 

それは、無印良品レトルトカレーを食べまくる「無印カレーパーティーをする!」みたいなレベルの話でもいいのだ。カレーは人をハッピーにする。場の設定の仕方ひとつで、周りの人と一緒に感じる「楽しい」はきっと増幅させられる。

 

 

 

 

 

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落合さんには「30年後の世界をHAPPYにしてください!」と言ってもらったけれど、「世界」の大きさは自分なりに調節して、自分と、その周りの人たちを幸せにできたらいいな、と思ったのでした。それだってメチャクチャ難しい!

 

 

 

人を愛せる人になりたい!!!(どっから湧いた結論なのか)

なんかわかんないけど、そうなりたいって強く思うから頑張るよ。

 

 

 

いつも以上に、まとまっていない考え事をそのまま記事にしてしまいました。思うところがある人、何もない人でも「せやな〜」みたいなやつでもいいので感想やコメントいただけると嬉しいです!

 

 

説明するということ

実績が大切だ、というのはその通りだ。何かをやろうと思っている、自分はこういった人間であると声高に主張しても説得力がない。聞いてもらえない。大切なのは「to be」ではなく、「to do」である。自分の性格はこれこれですという自己申告よりも、その人のしてきた行動のほうがその人を表す。

 

そう思って、いろいろと実行に移してきた。実際、「イベントを立ち上げました」と言うと面白がって話を聞いてくれる大人は多かった。それがなければきっとただの学生の私のことなど忘れてしまうような人たちが「ああ、伝道師になろうの松田さんね」と名前と活動内容を覚えてくれたし、私の話にしっかり耳を傾けてくれた。やりたいと思っているだけではだめ、行動に移して、実績にしてから初めて自分の“ポートフォリオ”ができて、それが名刺になる。

 

 

でも、最近はたと、実績があるだけでは足りないと気がついた。(無論、私の実績などまだ取るに足らないものだとわかった上で)

きっかけは尾原和啓さんの『どこでも誰とでも働ける』を読んだことだった。この本は、尾原さんが働く上で心がけていること、学んできたことをまとめた本だ。内容はとてもおもしろく、そんなところに気を配るのか、そんな行動をとるのかと学生の私にとっては驚きの連続だった。でも何より感銘を受けたのは、尾原さんが、自分のノウハウの蓄積をここまでわかりやすくまとめて本にしてしまったことだった。

 

 

例えば、私はイベントを立ち上げて毎回30-40人程度の集客に成功し、コンスタントに運営することができた。でも、コツはなんですか?どうすればイベントを成功させることができますか?と問われたら、参加してくれるひとのおかげだとか、Twitterの使い方をちょっと工夫しただとか、そういう取るに足らないことしか言えない。

 

つまり、わかっていないのだ。なぜイベントを企画して人を集め、参加者を楽しませることができたのか。コンセプトが良かったのかもしれない、私の態度が良かったのかもしれない、宣伝の仕方が良かったのかもしれない。具体的な手法は伝えることができるし、その時に気をつけていたことも言えるけれど、なぜそれに気をつけていたとか、どういう価値基準に基づいた判断だったのかとか、全然わからない。全部「かもしれない」で止まってしまって、何がどうなって、こうなったからイベントは成功したのですと言うことができない。幅広い年代、所属も職業もバラバラな人を集めて知ることのおもしろさを共有できる場をただの学生が作ったということは、大きな実績だ。きっと、本を出せるくらいの。だけど、私にはその力がない。言語化が必要だと気づくこともできなかった。

 

 

感覚的に成功させてしまったものには再現性がない。伝えることができなければ、その価値やおもしろさは、そこに居合わせた人たちだけのものになってしまう。私は今、自分の能力不足ゆえに、自分の作り上げたものの価値が限定的なものになることを許してしまっている。

 

 

実績があるだけでは足りない。説明できなければならない。それについて、きちんと伝えられなければならない。そのためには、もっと自分の考えを把握して言葉に落とし込まなければならないし、作り上げたものを客観的に眺めなければならない。

 

 

遅かったけれどせっかく気づいたので、私が今までやってきたあれこれについてきちんと説明できるように振り返ってみたいと思う。実績の先に説明があったように、説明の先にも何かがあるかもしれない。

最後の出勤

 

 

長いことやっていたバイトをひとつやめた。その日は生憎の雨だった。少し遠いこの街まで時間をかけて通勤する、その時間すら苦にならないくらい働いていて楽しかった。終わりというのは往々にして後からその実感が追いつくものだけれど、長く勤めた割に感慨がきちんとあった。通い慣れたこの街も、仕事がなくなったらたぶん来なくなる。いつも目の前を通るラーメン屋さんも、大型書店も、出勤までの時間潰しに使っていたカフェも。桜並木が有名ないつもの通りには、風物詩の赤い提灯が遠くまで揺れていた。帰り道、お世話になっていたパン屋さんでいつもより多くパンを買う。


働き始めてから終わるまでずっとお世話になったのは大好きな、尊敬できる上司だった。採用面接から意気投合した。後日電話にて合否連絡がセオリーなのに、面接の終盤で「いやもう採用するわ」と言いながら必要書類の空欄に「これ、おススメの本。きっと好きだと思う」とボールペンで書き込むような人だった。学問の話を楽しめる人だったし、ミスをすれば、次どうすれば良いか考えなさいと、叱るより的確に育ててくれる人だった。部下のことをとてもよく見ていた。パトレイバーに出てくる後藤隊長みたいに理想の上司だった。


学ぶことが大好きな私達は、世界の面白い部分を見つけてはいつも共有していた。『中動態の世界』っていうヤバイ本が出たとか、シオランの『生誕の災厄』は半端ないとか、映画「レッドオクトーバーを追え!」は痺れるとか、向田邦子の余白の使い方はえげつないとか。パトレイバーだってこの人に教えてもらって、私の最も好きな映画になった。

 

最後の日、出勤すると「プレゼント」と差し出される紙袋。私が欲しかった本が3000円相当。欲しいなんて誰にも言っていない。この人は、「私が欲しいと思っているけれどまだ買っていない本」という、その絶妙なラインを見事に当てたのだ。


職場の人たちにはゴディバのクッキーを用意していたが、その上司には別の贈り物を用意していた。「最後の賄賂です」とか言ってヘラヘラ差し出す。私が用意していたものも本だった。こういうところやっぱ被るよね、と可笑しそうに言いながら紙袋から2冊取り出してパラパラ見て「これやばいやつじゃん」と相好を崩していた。最後のページにしのばせた小さな手紙は、ひとまずバレなかった。


こんなに良い上司はいないと本気で思っている。機嫌が悪い時もあるし、たまに手を抜いていることもあったけれど、それぐらいがちょうどいい。人間味があって助かる。だってそれすら無かったら、超えられる気がしないもの。
組織よりも現場。売り上げよりも満足度。それでいてきちんと結果を出すから、よく表彰されていたし、大きな仕事もたくさん任されていた。


連絡先はもちろん知っているけれど、忙しい人だからきっともう会うこともない。それでいい。たまに、この本がやばかったとか、この映画が凄かったとか、そういうことを報告し合う。ざっつおーる。必要十分。本当に、最後の最後。彼は笑って、「また何か面白いことがあったら連絡しますね」と言った。まだ見ていないはずの手紙、その最後に私が書いたのと全く同じ言葉だった。

 

 

忘れたくないもの

 

 

家の目の前のヤマダ電機が潰れた。閉店してからずっと、からっぽのまま駅前の空間に放置され、2年経って漸く解体された。大きな音を立てて徐々に崩されていく。2ヶ月ほどかけて、大型家電量販店のあった場所は白いコンクリートを敷かれた更地になった。

その敷地のど真ん中に立ってみたかった。そこにはずっとヤマダ電機があって、そのまえはホームセンターがあって、だからもう10年以上、その場所に立つことはできなかった。でも、今ならできる。解体が終わって2、3日の間、道路とその敷地を隔てるものは小さな溝とひざ下までの衝立だけで、人目を盗めばいくらでも入れる状態だった。中心に立って、駅を、自分の家を、運河を、眺めてみたかった。「懐かしい」と思えるかどうか確かめてみたかった。

ここに引っ越してきたばかりのころ、そこにはヤマダ電機ではなくて公園があった。木製のブランコがあったことを覚えている。ちょっとした花畑があった記憶もあるが、ぼんやりとしていて確かではない。補助輪付きの自転車に、お気に入りの黄色いワンピースを着て乗っていたらスカートがタイヤに巻き込まれ、以降自転車に乗る時はスカートをはいてはいけないというルールができてしまったのもこの場所だった。

帰り道に更地の前を通るたび、誰もいないタイミングを見計らって侵入しようかと何度考えたかわからない。どこから入るのが一番安全か考えながらまわりをのろのろ歩いた。不法侵入の4文字がちらついて、ドキドキした。かつて大型家電量販店とその駐車場が存在したほどの大きさを持つ敷地の外を1周、2周して、やっぱり勇気がなくてやめた。明日にしようと思って家に帰った翌日、敷地を囲うように身長を優に超える高さの柵が隙間なく張り巡らされていた。

建物が取り壊されてから、家から電車が見えるようになった。発車ベルやホームのアナウンスも、風に乗ってよく聞こえてくるようになった。雨が降った後、白いコンクリートにできた水たまりには、東京にしては広い空が綺麗に映る。小さな駅とはいえ、駅前好立地のこの場所がこのまま放っておかれるはずがないだろう。きっとまたすぐに、次の建物(商業施設か、マンションか)が建てられてしまう。それまでの少しの間、できるだけたくさん雨が降ればいいのにと思う。

 

 

 

 

 帰ったらブログを書こうと考えながら自転車を漕いでいた時、書きたいことがたくさんあったはずなのに一つしか書けなかった。他は全て忘れました。忘れたくなかったはずなんだけどなあ。

研究計画 中世説話文学における狐

  

研究テーマについて

説話文学に「狐」はどのような役割をもって現れるのか。人を化かすだけではなく、人の役に立つようなことをする狐もあり、また、化かすにしても、人に報いるため、私利私欲のため、いたずらのためと、その動機は様々である。中世の説話文学における狐の描かれ方から、当時の人たちにとって狐はどのような存在だったのかを探っていく。

 

狐が文学に出てくる場合、以下の3つに大別することができるとされている

 

①害獣 型
人間に害をなす狐。度を過ぎたいたずらや悪さをしでかす

 

②異類通婚 型
美女に化け、男と結婚する。男に化ける狐があっても良さそうだが、狐は決まって美しい女に化ける。男と結婚した後は、人間より容姿も性格も優れた良妻として幸せに暮らすタイプもあれば、男の生気を吸い取って天狐になるための糧としたり、金を盗んだりバッドエンドへとむかうタイプもある。

 

③報恩型
恩返しタイプ。ごん、お前だったのか……

 

体感としておおよそ正しいように思うが、例外*1をいくつか知っているので、これらに対して新しい視点を見つけることができないか、中世説話文学に限って調べていく。

 

 

 

 

 調査方法

中世における説話文学を通読し、狐が登場するものを集めて整理する。まずは日本霊異記今昔物語集。狐は漢籍にも頻出であるから、中国文学との翻訳・翻案関係にも触れる必要があるだろう。例:聊斎志異

中国における狐、近世文学における狐との比較もできたら良い。伝承における狐の種類など、民俗学も絡めながら深く調査していく必要がある。

また、安倍晴明と狐、平清盛と狐、というふうに狭く絞った上でも研究可能な題材であるため、調べていく中で特に興味の惹かれるもの、学術的な意義を見出せそうなものがあれば随時方向性を変更していく。

 

 

 

研究の動機

 狐が大好き!!!!

 

 

 

 

*1:美女に化けた狐が良家のお嬢様と仲良くなってゆるい百合に展開していく話が、『聊斎志異』の中にある

「慈円会」はじめます

 

 

自分が最近勉強していて面白いと思ったこと(知識だけでもいいし、途中まででもいい)をおしゃべりする会をやるぞ!!

 

やります。

 

主に僕が話して、他の人でも話したい人は話そう。好きで好きでたまらないというわけではなくても話せるのがポイント。あと資料準備とかいらない。話すだけ。多くても7人くらいの規模で。

 

 

要するに、最近知ったおもしろいこと、勉強したことをゆるく話そうねっていう会です。最近読んだ本の話でもなんでも。

円く座って知を慈しむ会、名づけて慈円会!!(嘘です。慈円が好きなだけです)

慈円 - Wikipedia

 

 

5月7日(日)にやってみます。できそうだったら、2ヶ月に1回くらいのペースで継続してやっていこうかなと思っています。

 

参加希望者を募集します。

参加してくれる人は僕まで直接連絡ください。場所は未定です。

 あっという間に7人集まったので募集を締め切ります!ありがとうございました!

 

 

どんな感じになるんかな〜
希望者だけでその前後に街歩きor博物館に行っても楽しそうですね(完全に思いつきでしゃべってる)

 

開催しながら形を整えていこうと思います。よろしく!